人と会っている時に
「おや、今日の私はやけに人や物事の不満を口にしているな」
と気づくことがあります。
例えば、
「電車で我先に人を押しのけて座席に座ろうとする人が信じられない」
「自分のことしか考えられない老人てなんなんだろう」
「ディスカッションで発言しない人って大人として未熟だと思う」
こんな感じで、会話をすれば不満が口に出ます。
私の心身の不調のバロメーターは不満を口に出すときでわかります。
不満を人に話し始めたら、何かしら心身に不調をきたしています。
確かに電車で人を押し除ける人は嫌だし、
自分のことしか考えない老人も残念だと思います。
ディスカッションに参加しない人のことも大人として未熟だと感じています。
でも、わざわざそれを聞かれてもいないのに人に言う必要ってあります?
「聞いて欲しい」という欲求があるからなのですが、
話のネタとしてだったり、
愚痴として「聞いてよー!こんなことがあってさ〜!」という共感を求めることだったり、
それだったらその場で話してスッキリして解決するはずです。
話してもモヤモヤする。いい気分じゃない。それは欲求が純粋な欲求ではなく、不純な欲求だからです。
その欲求をじっと観察していくと見えてくるものがあります。
それは
「今の自分てどうなんだろうという自分を肯定できない気持ち。不安だし心許ない。
自分で自分のことを認められないから、誰かに私のことを認めてほしい」
という承認欲求なのではないかと思います。
でも本来、自分を肯定できない不満は、自分でしか解決できないんです。
それができずに手っ取り早く承認欲求を満たすために、ベラベラと余計なことをしゃべってしまう。
自分の不満の矛先を他人にすり替えるんです。
心に余裕があれば、人の立場になって考えることができます。
電車で我先に座りたいくらい疲れている日だってあるよな。
私だって自分のことしか考えられないときがあるし。
発言しないことが悪いことでもないし、未熟だからとは限らない。
こんな風に違った見方ができます。
そもそも何が悪くて何が良いかなんて人それぞれ違いますよね。
心に余裕があれば、自分の中の「こうあるべき」を緩めることができるんです。
だけど心身が不調なとき、自分を認める代わりに他人を否定します。
でも、私はそんな日があってもいいと思います。
季節のバイオリズムだったり、年齢によるバイオリズムだったり、外的刺激だったり、
生きていれば何かしら揺れ動かされて心身が不安定になるものです。
私は、毎日いい気分で過ごせるようなできた人間ではありません。
でもちゃんとそんな自分に気づくことが大事です。
「あ、私今不安なんだな。自分に不満があるんだな。」
と気づくだけで、自分を立て直すことが早くなります。
そして、不満を聞いてもらった相手には「ごめんね」と「ありがとう」という気持ちで感謝します。
逆にもし相手が不調な時は理解しようと思います。
自分に至らないところ、未熟なところが多いほど、他人のことも理解したいと思います。
風邪と一緒で、自分の中に不満や不安の因子は内在しています。
それが何かのトリガーで発症することがあります。
できれば発症したくないから、日々心身の健やかさに意識を向けることは大事です。
体の健康と心の健康は連動しています。
朝起きて、お日様を浴びて、バランス良い食事をする。睡眠もとる。
身近な人に「おはよう」「ありがとう」「またね」と笑顔で挨拶する。
誰もいなくて孤独だったら、自分から話しかける勇気を持つ。知り合いを作る。
基盤が整えば、心も安定して生きる意欲も活発になります。
それと、私はもし自分の中の不満や不安が発症しても悪いことばかりじゃないと思っています。
自分の状態を知ることができるし、乗り越えようとするとき、心の免疫がつくからです。
人は自分の心の問題と向き合いながら成長していきます。
なんだか満たされない自分も、自分を生きるきっかけを教えてくれています。
真正面から不満と向き合って、考えて、試して、失敗しても続けてください。
それでは今日はこの辺で。
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